2008年10月14日火曜日

DTPの「情報をデータ化する」プロセスの重要性を考えてみる

印刷物、価値、というところでググっても何も出てこないので、人に頼らず自分で考えてみることにする。

最終的な結論は、
印刷物の価値は「編集ボタン」と「削除ボタン」が無いこと
じゃないかと。

印刷物の価値は、「紙」としてみると、それ自体が普遍の価値のように考えられてきてたけれども、時代の流れと共に変わるべきものであって、そこにずっと留まっていることが、業界のよくない方向、閉塞感に繋がっているのではないかと思う。

「紙」が情報源となっていた時代から、ネットの、サーバの、ハードディスクの中に情報があり、それをいとも簡単に世の中に出せるような時代になっているわけで、それは素晴らしいことなんだけど、情報の価値、という側面から考えると、この状態は、量的価値であり、質的価値ではないと言える。

蓄積された情報からブラウザに再現された情報は、一旦公開されてからも、編集され、削除されながら、質的価値は常に変異する。よって、鮮度としてみると当然高い。
一方、「紙」の場合は、蓄積された情報から「校了」という瞬間をもって、情報がそこに固定化されるので、再現された情報の質的価値は、その瞬間は正確であっても、時間と共に鮮度は下がる。

ただ、情報の質的価値は、「鮮度」だけではない。その情報の「正確性」も重要な要素だ。

ネットから、できたてほやほやの情報を取ることはできる。
でも、その情報は常に更新される一過性のものであって、どの時点が正しいか、という議論は、まず闇に葬り去られる。そこに誰も期待しない。期待させる時間を与えないぐらいの情報が次々にやってくる。
だから、それを使う、見る人たちにとってみると、リンクボタンを押したとき、ページを開いたときに出ている情報が、自分がその時点で望んだものである、という情報を引き出した責任をそこに負うことになる。

そこで「紙」の中の情報について「正確性」という側面から情報の質的価値を考えると、その時点では、もっとも鮮度が高く、正確性が高いという情報の質的価値の極みを「校了」という名の下に、その瞬間に作り上げる。

現実的に考えて、スーパーのチラシ、カタログの商品名、価格を間違えたら、てぇへんなことになる。数々体験した。印刷屋、写植屋は、そこにプライドを持っている。
これほどまでに激しく動く情報化社会の中で、その瞬間、時間を止めて、情報を固定化するという力業をやってのけるプライドだ。

情報は変わる。
最後の最後まで、下版の時間が来るまで、他店の価格の情報を待ちながら、自店の価格を決定する。
最後の最後まで、自分が書いた文章が、他の人に伝わるかを、考え続ける。
最後の最後まで、間違った情報ではないか、確認する。
そうしてできた「紙」には、情報を伝える側の思いと責任が、固定化した紙面の中で、限られたスペースに凝縮されて、文字、写真、図、表を使って再現される。

インターネット、イントラネットで公開しているデータベースの入力を少し間違えて、
表示がおかしくなっていた、とすると、
それは、「てへっ」とか言って、「こっそり」直すことができる。

しかし、「紙」になってしまったら、直せないのである。
「編集ボタン」も「削除ボタン」も無いのである。
どんな権限を持った人でも直せないのである。
「てへっ、間違えました。。。直しといたんで大丈夫っすよ!今最新の情報になってますんで」なんて、軽いノリはあり得ないのである。
1文字の間違いが重大な印刷事故として、扱われるのである。
間違った情報を編集し直して正しい情報にしたいなら、刷り直しとなる。印刷、製本までして、納品待ちのパレットに積まれた印刷物は、ゴミになるのである。
訂正のシール貼りをしたり、お詫びの広告をしたり、お客さんに謝罪したり、事故報告、対策会議が開かれたり、罰金の話とか、本当に大変なことなのである。

自分たちのミスで、情報を間違えたら、お客さんに対しても、その先のお客さんに対しても、そして社会に対しても責任がある、ということを、長い歴史から刷り込まれている。
情報に対しての責任という面では、もしかしたら、お客さんよりも考えているのではないか、と思える程のプライドを持っている。(と、思いたい、、、で、なかったら、何で何回も校正とか内校する?)

すでに、情報を作り、蓄積する手段が、お客さんの中にある。
そこから、共同作業で、固定化した情報を作り上げるのは、大変な作業であり、
お客さんからも、自分たちの情報の整理を求められるのではないかと思う。
お客さんの目的は、情報を蓄積することであり、それを対外的な公開を目的として引き出すには、相応の人材がいなければ無理だろう。

それが分かるのは、DTPデータを自分のところのDBに戻して欲しい、というときだ。
間違いなく、この瞬間、お客さんのところに蓄積される情報よりも、印刷物の情報が正しい、ということが言える。

なぜ、そうなるのか?
蓄積されている情報は、粒であって、その整合性は、放っておけば、保たれることもなく、そこに存在するだけになる。
入力間違いをしたなら、入力した人の責任だ。
そういう状態の日々の中で、「ちょっとシステム止めて、全体が間違ってないか調べて、調整するから待って」というのはあり得ない。情報は常に変化していて、止められないからだ。
しかし、そのお客さんの外、社会に対して出て行くときには、その責任は会社の責任となるので、まとめ上げをしなければいけない。
便利になったようで、便利になっていないと思うところは、この欲求が満たされないことにある。
結局のところ、人間は、物体として目に見える状態にならなければ、本気を出さないのだと思う。

正確な情報を作り出すというプライドによって、印刷屋たる存在意義によって、そこは、我々が、自信を持って主導するべきところなのではないかと思う。

だから、付加価値とか考える前に、本来の価値をもう一度見直さないといけませんね。。。
うーむ、伝わるのかな。。。

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