ネタ的には、出版界の恥を晒してしまった書籍「アインシュタイン その生涯と宇宙 下」が機械翻訳だったため回収へ - GIGAZINEという記事について制作という立場から思うことを書いていたら、8月4日に発生した東海テレビのテロップ表示の放送事故、同日開催されたグラフィックコミュニケーションズ工業組合の電子書籍セミナーが本題に関わるのでまとめてみる。
まず、機械翻訳で出版したものが後で発覚して自主回収という、なんだそれ、状態の話。別に糾弾するつもりはない。
これは謝罪文によると7月1日となっていて、発行されたのは6月末頃らしい。ネットで機械翻訳の噂がというか、もうあからさまなんだけど、いろいろと盛り上がって、ここ数日前に投稿された多くの記事でそのひどさについて書かれている。
書籍を制作している自分の立場から考えても「?」が多いこの話。出版社内部で制作してんのかな。
普通だと著者(今回は翻訳者)←→編集←→制作でこねこねしながら、権限のある人が校了フラグを立てるまで、数回「校正」という工程があるはず。
その後印刷に回るわけだけど、そこでも誰かが間違いに気づいたりして印刷機を止めてもう一回その版だけ刷り直すとか、そういうあんまり効率的ではないと思われるほど、完成物に対して神経を尖らせている、そこまでやらないと自分たちの仕事は完結しない、のだとこの話を聞くまでは思っていた。
実際自分でも印刷入れした後に、「はっ!やべえ!」って気づいて印刷屋さんに青くなりながら連絡したりとかあったんだけど、そういうのもなしで、あんだけの本を刷っちゃうんだなあというのがあると、よっぽど腹が据わってるかと思えば自主回収だし、、、て考えていくと、まさか売るためのネタ作り?とか思ってしまうのだった。ま、そんなわけ無いけど、中古本が高値になってるらしいので。
んでもって、早急に修正しますってあるけど、ここまできたら時間よりも内容だと思うんだけどなあ。
著者、編集、制作、印刷という分担作業の中、データでのやりとりが普通になったことで、システマチックな制作フローが組めるようになって、右から左に流れていくようになっている。
それでも、各工程で、今回のような「校正」以前に内容についての推敲や議論がされない状況では、出版社における編集という価値が低下傾向にあって、世の中の出版不況が活字離れとか言ってたけど、それって違うよねと。根本的なところに立ち返る必要がある気がする。
で、これは出版社に対してだけじゃなくて、制作する自分たちも、「これはおかしいよね」と普通に言えるようにならないといけない。
分業で、いつのまにか制作担当者の地位は、「ただ言われたとおりにやればいい作業者」として扱われるようになっている。
内面的な意識も「自分たちは言われたとおりにやればいいだけ」「余計なことをする(言う)と怒られる」とか、そうなっている傾向が見受けられる。当然、そうでない人もいっぱいいる。
それは意識だけの話じゃなくて、行動で示さないといけないわけで、ことの顛末の記事を見ると、編集長から延期を社長に申し入れして、却下されてとにかく出版した、ということらしいけど、編集長さんだけじゃなくて、もしそこに自分たちが関わっていたら、物作りをする立場の人間として「これじゃ絶対に出してはダメです!」って言えたかどうか。。。
東海テレビの放送事故も考えられない失態なんだけど、制作スタッフが先行して作って、あとはダミーデータにしておく、ということはよくあることで、これは印刷物やWEBなどの物作りに限らず、システム開発なども一緒。作っている最中にちょっとした遊び心(今回のは度が過ぎるけど)でダミーを仕込むことがよくある。そういう「緩さ」というのが命取りになるということを制作に携わる人がよくよく理解していないといけない。話によると、番組は打ち切りかもしれないらしい。
ここだけの話じゃなく、企業組織やビジネスの中で普段は軽視されがちな制作のちょっとしたことかもしれない作業が、とんでもないところまで波及する可能性を孕んでいるということを理解できているかどうか。
やっちまったなー、って傍目で見ていていい話じゃないと思うのです。
印刷物やWEB、メディア関係の物作りという仕事における今現在のひとつの象徴である気がするのです。
DTPオペレーターもアニメーターもデザイナーもWEB屋も放送メディアの制作スタッフも給料がめちゃ安いという話を聞いたことがある。
DTPは知っていたけど、他もそうなんだと。これでは育てる環境が作れない、それが作れないということは良いものが作れるはずがない。
そういう中で、物作りの仕事することはもちろんのこと、楽しく仕事するのも大事、でもその領域をちゃんと理解できる良識を持った人材を年代に関係なく教育していくこともとても重要な仕事だと思います。
どうも日本は古来からの営業スタイルによって営業が強すぎる気がするんだよな。それは他業界は違って良いかもしれないけど、物作り、クリエイトする仕事において、価格が営業主導で決められるってのはどうなのって思う。
本日のセミナーによると、一般書(印刷)からeBookになったところで、出版社が痛手を被ることは少ない、若干良い方向へ向いていくが、その中で、「品質を保つ、アップさせるという工程の価値が高まっている」とのこと。
製版・制作会社が多いGC(グラフィックコミュニケーションズ工業組合)に対して、JAGATの小笠原さんが総括的におっしゃっていたが、今まで「印刷物を作る」ということが、データを作って印刷は別のところがやるということで、誰かの手が加わったものが商品になっていたが、電子書籍などを作れば、今自分たちが作っているものが、最終商品になる。
そこにはチャンスがいっぱいあるわけだけど、そのためには、今とは違った意識で取り組む必要があると。その商品の責任がすべて自分たちにかかってくるということ。それは、お客さんの商品だけど、それをどうやれば売れるのか、ということに本気になって向かっていけるかどうか。そういう面で意識を変えないといけないということだった。
「校正」というものが、専任の担当者がやる仕事、という理解ではいけないわけで、「これでいいのか」ということは携わる全ての人が意識をしないといけない。印刷がただ刷るだけでいい、制作もデータ流せばいい、あとは知らん、という意識が浸透してきている気がするのと、物作りが、なんだか歪んだ、ふざけた感じで、いいんじゃね、しらね、という意識が表面化してきている気がする。
そうなると、工賃作業から自分たちの価値を対価に変えることができるというせっかくのチャンスを取り逃すことになりかねない。
もっと、物作りという行為や、商品というものに対する意識を高く持たなければ、自分たちの環境などその上に成り立っているわけで、よくなるわけながない、と思う。
最初の3つが繋がったかどうか、、、
0 件のコメント:
コメントを投稿